/

髙砂山の紹介

髙砂山

高砂山 宮町組

亭は八っ棟造りで、軒先に唐破風を付ける。舞台屋根は切妻造りで、両側面に千鳥破風を付け、筥棟鬼板に「宮」の文字、同鳥衾に「元山」の文字をあらわしている。
 楽屋側面の外欄間には「柿樹上に群猿の遊ぶ」の木彫があり、構図がおもしろくすぐれた作品。舞台前柱は「雲と垣根に瓢箪唐草」の透彫り飾金具が全体を覆っている。台輪には半肉彫鍍金の「兎が波上を走る」の飾金具を付ける。舞台障子の「牡丹に小禽の図」は大塚岐鳳の筆になる。
 見送り幕は、全面刺繍「八仙人の図」のものと綴織「唐子遊戯の図」のものがある。
 曳山本体は延享二年(一七四五)の修理記録があり、それ以前の建造とされる。亭は文化十三年(一八一六)、藤岡重兵衛安則の作。

 
  • 亭より全景
    亭より全景
  • 大虹梁飾金具と木欄
    大虹梁飾金具と木欄
  • 舞台高欄
    舞台高欄
舞台高欄 舞台高欄

髙砂山の歴史と説明

髙砂山の歴史 髙砂山の歴史

建造年代

 長浜の曳山は、羽柴秀吉が長浜在城時当時に創建せられ、その後改築せられたものが現存の曳山である。高砂山もこの通例によるものであろうが、その改築年代は明らかでない。ただ延享二年(一七四五)に修理した資料があるから、現在の高砂山は、それ以前に建造せられていることはまちがいない。現存十二基の曳山のうち、建造年代の明らかなもので最も古いのは宝暦五年(一七五五)青海山であるが、高砂山は上記延享二年の修理資料があるから、青海山より古いという事になる。
 高砂山の古老の間には「宮川(現在長浜市宮司東町)にある曳山が高砂山の旧曳山であった。との伝説があり、また宮川の古老にも「宮川の曳山はもとは宮町高砂山の山であった。」と伝えるものがあった。しかし先年、宮川の曳山「颯々館」を調査したところ、享和二壬戌四月吉日、長浜住藤岡和泉里利盈作之という墨書銘を発見した。この墨書銘によって宮川の颯々館は、宮町組の旧曳山ではなく、宮川に於て建造せられたものである事が判明した。
 しかしその見送幕の裏書によると宮川では享和二年に始めて曳山を建造したのではなくそれから遡る事四十四年前の宝暦八年に既に曳山のあった事がわかり、この宮川の旧曳山こそ、宮川でもまた宮町組でも古老の間に伝えられていた旧宮町組の曳山であったものかと思われる。

亭の建造と改造

 高砂山の亭は文化十三年に新造附加したもので、棟木に左の墨書銘がある。
 文化十三年丙子九月吉日藤岡藤原安則之亭は囃子をする場所で、一定の人数である囃子方が入れるようできるだけ広く造らなければならない。
 そのため高砂山では、亭を建造するにあたって、亭の前部を下層の舞台屋根後部にのせるために、舞台屋根には大改造が加えられた。
 屋根の軒付は檜皮葺を模し、平葺は屋根板に柿葺型造出しの上、板継目は生平布(きびらぬの)を張り、全面生漉(きずき)厚手の日本紙を、渋を混ぜた蕨糊で張った後、檜皮葺色漆塗としたもので、多少の雨露を凌ぐ事はできるが、永年の間には破損もするので、大正十五年、全部張替え修理をした。同様に舞台天井板の修理、亭軒廻飾金具の修理をした。
 以上のように、高砂山の如く、改造に改造、修理に修理を加えて現存の曳山となったものもある事が実測調査によって判明している。

元山について

 高砂山の沌棟鬼板の鳥衾には、総て楕円形枠内群青色塗に浮彫金文字で「元山」とあり、「げんざん」とも「もとやま」とも読んでいる。元山については「宮元の町である宮町組の曳山であるから。」との説と、「長浜十二組のうち、最初に建造せられたからである。」との説と、古来両説が伝えられている。高砂山組即ち宮町組は、十二組のうち、長浜八幡宮に最も近いところに位置し、その山蔵はもとは八幡宮の境内、宝物蔵と並んで八幡宮の本地堂近く、即ち現在の放生池の東にあったものであるが、明治維新、神仏混祀を禁ぜられ、境内にあった坊舎を取りくずして境内の整備をした時、山蔵も境外ではあるが、やはり社有地である西大鳥居の南、現在の地に移転したものである。
 長浜八幡宮所蔵文政四年の境内古図には宮町組山組の所在を記していないが、慶応三年長浜の古図には境内の上記の位置に山蔵のあった事を明らかに記している。
 しかし今もなお「宮元の山」という事はいわれているので、宮元の町であるから、他の町に先んじて最初に曳山を建造せられたものであろう事は想像せられるところであり、従って「元山」は、伝説の如く宮元の山であり、最初に建造せられた事から付けられたものであろうと思われる。

綴織唐子遊戯の図見送幕

上部約五分の一を紺地とし、中央に太陽、その左右に鳳凰を織出し、下部には総数七十に唐子の遊ぶ様を織出している。笛、ラッパ、太鼓などの楽器を奏する一群、囲碁をする一団、読書する一団、鶴と遊ぶ者、毬をつき上げて遊ぶ者、絵をひろげて見る児あり、童子のあらゆる遊びを網羅して、風物の如きもこまやかに織出している。
 制作年代は、日本の江戸中期、享保頃というのが一致した説であるが、制作地については「日本である。」という説と、日本か中国かわからない、しかしこの時代に日本ではこれだけ大きいものが、まだ製織されていなかったから、まず中国製であろう。」という説がある。
 また獅子舞の獅子の銅や、一唐子の冠の部分、その他に銀糸の如き光沢のある部分があるが「これは銀糸ではなく、孔雀の尾羽の細い糸のようなものを撚糸として織込んだもので、普通の銀糸とは、その光り方がちがい、夜などは殊に美しく見える。もし銀糸であれば、今日までこの光り方が保てないだろう。孔雀の尾羽を織物に用いる事は最近日本でも綴錦に使用することはあるようになったが、だいたい中国人の仕事であって、この見送幕の織られた時代には、日本では使っていない。従ってこの種の綴織見送幕は長浜では、ただ一枚であるが、京都、大津、米原、高島などの曳山の見送幕やその他の幕類によく使われている。

 
  • 綴織唐子遊戯の図見送幕
  • 綴織唐子遊戯の図見送幕
  • 綴織唐子遊戯の図見送幕